外資系企業の良いところ、でも結局サラリーマンだよね

こんにちは、フィエスタです。

 

僕は、ひょうんなことから
新卒でいきなり外資系企業(製造メーカー)
で働くことになったんですね。

 

その経験を少し書いておきたいと思う。

 

当時、バブル崩壊の煽りを受けて、
行きたかった会社(日本の会社)の
新卒枠がゼロとなったんですね。

 

いわゆる最初の”超氷河期”である。

 

ガーーーーン、である。

 

僕の一つ上の先輩は、
バブル期ということで、
いろいろな企業から

 

”接待”を受けて、希望する企業に入っていったんですよ。


そりゃもう大騒ぎですね。
ちょっとした小型車両なら
買えちゃうくらいの額をもらったりするんです。。。

 

それが、いきなり、採用ゼロ。。。

 

行きたい会社に入るすべが
全くないという状態になるんですね。。。

 

面接してダメと言われるのであれば、
まだ何とか納得するんですけどね、

 

その面接を受ける機会さえも与えられない状況なんですよ。

 

 

途方に暮れましたわ。

 

ほかに行きたい会社ないし。。。

ほかにやりたいことないし。。。

 

 

大学の就職課で、

いろいろな会社の求人票を見てみても、

全く心惹かれず。。。

 

「えー、どうしよう。。。
でも、働かないと行けないしー。。。
でも、何も他にやりたいことないしー。。。」

 

そうやって、なんとなーく、
就職先を探してるような、
探したくないような、
現実逃避を続けてたんですよ(笑)。。。

 

 

そんな生活を続けていたが、

ある時、求人票の一つに目が留まった。

あるアメリカの製造メーカーの求人である。

 

 

”へっ?これって、あの会社?”と、心の中で思い、

何度も読み返した。

 

”へー、そんな会社の求人があるんだー。。。”
とあるアメリカ企業の日本法人からの求人だった。

でも、その時は、そんな感想しか持たなかったんです。

 

 

全く外資系企業のことなど頭になかったので、

すごいとは思ったものの、

そのときはそのまま、へー、で終わって家に帰ったんですね。

 

でも、なぜか、
その会社のことが頭から離れない。

 

その会社で働くことをイメージすると
寝ても覚めても、その会社のことを考えていた。

 

「えー、そんな会社で働けるチャンスって
もう、僕の人生でないかもね。。。」

 

「だったら、やってみても良いんじゃない??」

 

って、自分で自分の背中を押すんですよ。

 

 

1週間ほどだったか、迷った挙句、大学の担当教官に

その会社に応募したい旨を伝えた。

 

先生:”いいのか? この会社には指定校推薦はないから、

            自力応募ということになるよ。”

僕:”そうですか、でもかまいません。”

 

となり、応募することになった。

一度、スイッチが入ったので、何が何でも

入社したい気持ちが強くなり、いろいろなコネを探して、

その会社にアプローチした。

 

その甲斐あって、内定を取ることができた。

あっけなく、僕の就職活動が終わった。

が、周囲の友人からは、”大丈夫か? 英語のできないお前が行って。。。”

友人たちは、普通の理系男子と同じく、指定校推薦で

続々と希望の会社に採用が決定しているところだった。

 

その会社も、たまたまその年だけ、新卒採用を募集した

ところだった。新しく開発センターを日本に設立するため、

中途採用だけでなく、新卒採用枠を設定し、日本の地に

根付いていこうとしている矢先だった。

 

入社後わかったことだったが、日本に数百名の社員がいる中で、

同期の新人数名以外は、全て中途入社者。99%中途入社の会社である。

 

なので、日本の会社のように、一律入社後、会社の生立ちから

製造研修、営業研修、そして半年後に配属先決定、といった

プロセスなどはない。

 

1週間の研修による、簡単な人事制度、会社の状況などの説明後、

いきなり配属、業務開始だった。

 

先輩社員はいるものの、みんな中途入社者である。

”とりあえず、これやって”。。くらいの説明で、業務開始した。

 

とある製品を日本の会社と共同で開発していて、

その製品を日本の会社の製品と共通化し、

コストを抑えながら、両ブランドで市場に投入するビジネスだった。

 

開発センターでの僕の最初のアサイメントは、我々の会社の制御ソフトウェアを

相手の日本の会社のシステムに導入し、適切に動作させていくことだった。

 

といっても、適切に説明されたマニュアルが用意されているわけでもなく、

その制御ソフトウェアのコードをプリントアウト した

1,000ページ分のバインダーが置いてあるだけだった。

 

とりあえず、制御ソフトウェアを理解するところから、

自分のキャリアがスタートした。

 

制御の理解を促進するため、実際の製品の動作で確認をしながら学び、

わからないことがあれば、先輩に質問しながら理解を深めていく。

さらに、わからなければ、専門書や学生時代の工学系の教科書を引っ張り出して、

理解する日が続いた。

 

さらに、外資系企業である。。。

英語とは切っても切れない関係が続く。

 

入社時のTOEICスコアは575。。

とても英語ができるとはいえるはずもなかったが、

社内文書はすべて英語、メールも英語。上司はアメリカ人。。。

毎日、英語のシャワーを浴びているとはこのことだ。

 

朝一で、まだ頭がすっきりしている間は、

何とか周囲の会話の流れぐらいは理解できたが、

午後に入ると10分が限界となる。

 

がんばろうにも、脳内が飽和状態となる。

 

さぼるつもりはないのだが、眠気が襲ってくる。

脳が頑張ってフル稼働するから、相当疲れるのだ。

 

新入社員ということで、語学力は少し大目に見てもらいながら、

まずは専門知識・経験を積んでいった。

 

制御ソフトウェアと悪戦苦闘すること2年半経って、

初めて北米本社に出張に行かせてもらえることになった。

 

今は新しい空港ができているが、当時はまだ古いレンガ造りの

デトロイト空港である。

 

僕の初アメリカである。

 

空港には、北米本社に勤務する僕のアメリカ人同僚2名

クリス(仮)、マーク(仮)が、出迎えに来てくれた。

 

電話会議では話したことがあった二人であるが、会うのは初めて。

クリス:”Welcome to the country of freedom!"

と言って、西洋的に、ハグして、力いっぱい握手をしながら歓迎してくれた。

 

今でも覚えている。

そっか、ここは”自由の国”なんだ。

”自由”の名のもとには、なんでも許される。

頑張るのも自由、頑張らないのも自由。本人次第。

他人を傷つけることでなければ、まさに何でもアリ。

それが、僕のアメリカの最初の印象だった。

 

僕:”ところで、なんで二人で来たの?”

クリス:”お前が、二人で来いって言っただろう(笑)”

僕:”えっ、言ったっけ?”

 

出国前に彼らに送ったメールを読み返すと、以下のように書いてあった。

僕:”Can each of you pick me up at the airport as I am not familiar with the US, please?"

 

そう、either of you でなくて、each of you と言ってしまっていた。

まだ、either とeach の意味と違いをよくわかってなかった。。。(汗)

そんなレベルである。。。

 

クリスは、同い年ということもあり、意気投合した。

滞在中にいろいろと面倒を見てくれた。

自分の家にも連れて行ってくれ、彼女も紹介してくれた。

 

クリスの家は、まさにアメリカンな一人暮らし用のアパートメントだった。

よく映画に出てくるように、ドアを開けるといきなり部屋、

玄関という概念もなく、いきなりリビング。

ダーツに、瓶ビールのラッパ飲み、大きなテレビに、ふかふかの大きなソファー。

まさに、映画の世界に見えた。

 

愛車は、マスタング コブラ。マスタングの中でも走り屋用に

フルチューニングしている、まさにアメリカン スポーツカー。

 

助手席に乗せてもらって、ミシガンの大地を走りながら、

美しい風景を見ていると、それだけで幸せな気分になる。

巨大な草原、巨大な木と木洩れ日、道路わきの

巨大で個性的な家々。信号機。。。

 

初めてなのに、どれも、どこか懐かしさを覚える。

 

何もかもがまぶしく見える初めてのアメリカだった。

 

そして、3年目、最初のアサイメントである製品が

ラインオフし市場に出た。

 

クリス他、同僚、先輩、上司、日本の会社の方々の援助があって

何とか、製品化にこぎつけることができた。

 

こうやって、僕の外資系企業での生活がスタートした。

よく、外資系企業はドライだ、冷酷だと言われるが、僕の中では、

そんな印象は全くなかった。

 

業界にもよるのだろうけど、むしろ、アサイメントや目的が

シンプルで明確だから、働きやすい。自分の業務を適切に

ドライブできていれば、上からいろいろと干渉されることもない。

今にして思えば、非常に働きやすい環境だった。

 

5年目を迎えたころには、TOEIC900点を超えて、

あまり英語に関して不自由を感じることなく

コミュニケーションできるようになっていた。(と錯覚していた。。。汗)

 

英語学習に関しては、また別途記事を書きたいと思う。

 

こうして、外資な人生が始まった。

最終的に、この会社には13年半ほど勤めて転職した。

 

転職に関しても、また別途記事を書きたいと思う。

 

今にして思えば、いい思い出ばかりである。

自分のエンジニア人生のいいスタートだったなあと思う。

バブルがはじけて、行きたい会社に行けず入社した会社では

あったけど、こんなもんだ。

 

人生何が起こるかわからないから面白い。

 

今でもつながりのある友人たちが、アメリカだけでなく、

オーストラリア、イギリス、ドイツ、スウェーデン、中国、

そして日本、にいる。

 

地球のいろいろな場所で、自分のことを気にかけてくれる人が

いると思えるのは、幸せだ。自分の人生の宝の一つである。

 

 

私、フィエスタは
不労所得で月収200万以上稼ぐ
若手起業家
と出会い、

人生が激変しました。

 

現在は、ある大手企業で管理職として働きながら、
こうやってネットビジネスで情報発信しています。

 

人生、色々と頑張ってきました。
そして、技術を極めたいと思って、
博士号も取得しました。。。

その知識を活用して、皆さんがご存知の
とある製品を開発しています。

 

小難しい、数学、物理、コンピュータなどなど。。

 

ただ、常に自分に疑問が湧いてくるんです。

「これって、本当に社会に対して価値を
提供してるんだろうか?」

もちろん、その製品を使ってくださる方々に
対しては、その通りなんですが、

「たった、それだけ??」

って思うんです。

それよりも、もっとダイレクトに、
多くの人に、価値を提供したいと思い、
ネットビジネスを始めました。

今は、とても楽しいんです。
会社の仕事のように苦しくないんです。

色々な読者の方を励ましたり、
逆に励ましてもらったり。。。

直接、色々な方と”つながってる”って、
実感でき、価値も提供できてるって
安心するんですよね。

 

ビジネスなんて、才能なんて不要だと思います。
むしろ、それが足かせになっていると思うんです。

会社の中では、超優秀な人が、思考停止状態になり、
自分のプライドとか保身のために、
ダークサイドに落ちたり(笑)、
心を病んだり。。

 

なので、

より、人間的にいきていきたい!

人生、勝つとか負けるとか、才能じゃない。
どんな人でも、行動すれば
絶対に変わることが出来る。

それを、示すことも自分の役割だと思います。

 

これまでの人生、
起業家との出会い、
ネットビジネス開始の
ストーリーはこちらで
書いてます↓

大手企業 管理職の僕が
20歳年下の若手起業家と出会い
ネットビジネスを開始する物語

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