29歳若手起業家と出会って、人生が激変した大手企業管理職の物語

 

はじめまして、フィエスタ と言います。

 

自分の限界にチャレンジしながら、
少しずつではあるけれども成長し、
人生の折り返し地点を迎えた時、

50歳になる大手企業の管理職である僕が、

20代にして不労所得200万円/月を得て
世界中を旅行したり、新たな事業を始めたり、
自由な人生を楽しんでいる若手起業家と出会い、

ネットビジネスという新たなチャレンジに踏み出したいと思い、
独立を目指し、挑戦しまくっている僕の物語です。

僕自身、長い人生を歩んできた中で、
右肩上がりの順調な人生を歩んできたわけではなく、
人生の節目節目で、

「人生こんなのでいいんか?!」
「もっと頑張れるんじゃないか?!」

と、葛藤しながら、
もがきながら、必死に頑張ってきました。

 

なので、僕と同じように、


  ■一生懸命勉強して会社で働き始めたけど、会社の先輩がショボすぎて、”えっ? 僕の10年後って、この10歳先輩のおっさんと一緒? こんなんでいいんか?”

と、疑問を感じている人、

■会社に入ったはいいけど、”えっ? その仕事意味あんの? そんなしょうもないプレゼンの練習ばかりしてて、いいの? 会社ってこんなもん?”

 と、自分の思い描いていた会社員生活に戸惑いを感じている人、

 ■会社で働きつつも、家と電車と会社の往復で、つまらんルーチンに入り、全く刺激なく成長なく。”もっと成長したい!もっとワクワクする日常が欲しい!”

 と感じている人向けの記事となっています。

 

では、物語に入る前にざっくり 僕がどんな人間か箇条書きにしたいと思います。

 

  • 現在は、人生の折り返し地点を迎えた50歳大手企業の管理職で、独立したいと考えています。
  • 外資企業から年収1,800~2,000万円くらいのオファーは貰えるようにはなりました。
  • ある時期は、毎月海外出張に出かけ、1月は台湾、2月はドイツ、3月はイギリス、4月はフィリピン、5月は南アフリカ、、、と、目覚めると自分が今どこの国にいるのか、自分の部屋なのかホテルなのかさえわからなくなるほど、エンジニアとして頑張って働いてきました。
  • ある日本企業との共同プロジェクトでは、数百人のチームに自分だけ日本人で、残りは外国人という環境で、働いていました。言葉の壁、考え方の違い、もっと言えば、日本人に対する差別と戦いながら必死に働きました。

 

それなりに、恵まれた社会人人生を送っているように思うかもしれませんが、昔はこんな感じでした。

 

  • 小学生のころから、”欲がない”と担任の先生から言われて、案の定、中学受験、高校受験、大学受験に失敗し続けました。
  • 受験に失敗し暗い浪人生活を送っている時、周りの友人たちから電話で遊びの誘いを受け、彼らがキラキラと輝くのを見て、うらやましく思いつつも、悔しくてさらに落ち込んで行きました。
  • 自分に自信がなく、彼女を作る勇気もなく、彼女いない歴35年で、友達から”ホモ?”という噂を流され、暗く悲しい青春時代を送りました。
  • 体重54kgのヒョロヒョロの体で、大学入学と同時に、いきなり体育会ラグビー部に入部も、ついていけず、先輩から”1か月持たないかも”って思われていました。
  • 大学卒業後、外資企業に就職したのはいいが、メールも資料も会議も全部英語。自分は英語が話せず、会社に全くついていけず、周りからは”落ちこぼれ”の目で見られ、劣等感のカタマリでした。

 

多くのコンプレックス/劣等感を
抱えながらも、自分なりに努力を重ね、
克服してきました。

ただ、サラリーマン人生には限界があります。

世の中にない製品を自分で開発して、
街ゆく人たちがそれを嬉しそうに使っている姿を
喜びたい!と思っていました。

それを、将来自分の子供に自慢して、
お父さんのようになりたい!と思って
もらえる家族を夢見てました。

でも、現実は、製品を作る時間なんて
ほとんどありません。

椅子に座って、
パソコンを使いながら、しょうもない上司に
怒られないためだけの報告書づくりや、

違う部署の協力者に、嫌われず、
ふて腐れてヘソを曲げられないようにするための、
ごますり会話のオンパレード。

”そんな苦しさを乗り越えてこそ、
立派なエンジニアになれるんだー!”と、
先輩社員から、苦しい言い訳を聞くたび、

”はー、、、僕の人生なんだったの?
頑張ってきたのは、こんなことのため?”
と、不安と恐怖とやり場のない怒りで
心が折れて行きました。

この会社、この国、巷にはなんでもあります。
でも、希望だけがありませんでした。

 

 

もはやモノづくりの時代ではなくなっていることに
気付きながらも、どうすることもできず、
時代に取り残されつつある自分に
焦りを感じることもあります。

人生の折り返し地点を迎え、
このまま人生が終わってもいいのか?
と自問自答を繰り返す日々に苦しみながら、
”まあいいじゃん”という自分と
”それじゃダメだ”という自分の間で
日々過ごしていました。

でもある日、覚悟を決めて
ある一歩を踏み出す決心をしました。

一度しかない人生、
小さい頃から考えていた、
自分の会社を持ち、
弟と二人で営んで行きたい。

そのような新たなチャレンジに一歩踏み出したいと思い、
日々を送っています。

 

でも、なぜ今の安泰な生活に留まらず、
リスクを取り新たなチャレンジを始めるのか、
僕の話を記したいと思います。

先天性の難病を抱えた弟の存在と家族

二つ年下の弟は、
先天性の難病を抱えて生まれました。
エーラス・ダンロス症候群。
皮膚・筋肉の病気で、
皮膚無力症、過剰弾力性皮膚と呼ばれています

そんな家庭であったため、
弟が幼いころは、
常に入退院を繰り返し、
母親はずっと病院で 生活していました。

父親は、いつも幼い僕に向かって、
“ごめんなー、さみしいだろー”と謝っていました。

なので、僕は、物心をついたころ、
“なんで、とうさんは謝っているんだろうー?”
“弟のことか。。。” と、疑問をよく感じていました。
そして、自分の欲求を抑えることを 本能的に強いていました。

誰も何も、僕に強制しているのではないけど、
僕は普通に、”弟の生活はどうなるんだろう?“と、
考えるようになっていました。

気づいたら、通学途中にずっと、

“弟は、どうやったら普通に歩けるようになるんだろう?”

とか、

“弟に楽しいことをさせてやるには、どうしたらいいんだろう?”

とか。。。

”人の命とは何なんだろう。

同じ母親から生まれてきて、
僕は五体満足に普通に産んでもらった、

一方で弟は先天的な病気を抱え、
ハンディーを背負って生まれた。

当然、何も悪いことはしていないのに。”

とか。。。

小学校を卒業することには、

”弟を幸せにできるのは僕しかいない。僕は、弟と二人で生きていこう。“
という決断をするまでになっていました。

そして、

そのためには、稼ぐ力が必要だと考えていました。

両親からは期待されます。
“わしらは「学」がないから、弟のことをお前が守ってやってくれ。”

ただ、いつも、そうやって責任逃れしているように聞こえてました。

いつも腹が立って、プレッシャーに押しつぶされそうでした。
眠れない日が続き、悪夢で目が覚める日もたびたびありました。

ただ、僕にはその先を描く力も行動力もありませんでした。

ただ、ただ、日々が過ぎて行きました。

受験の失敗とチャレンジの連続だった学生時代

弟のために稼がなければならない。

その思いがある一方で、
自分が何になるべきか、
どうするべきか、
何も行動することもせず、
高校時代は逃げるかのように、
友人たちと遊んでいました。

その結果、案の定、受験に失敗。

共通一次試験(当時はまだセンター試験ではなかった)で失敗し、
2次試験に進む点数に到達できませんでした。

人生初めての、挫折でした。
担任の先生や友達の、
同情の眼差しが 心に刺さります。
強がるしかありません。

友人はみんな
何事もなかったように
自分の進路を手に入れ、
新しい生活に夢を膨らませ喜んでいました。

僕は、ただ、ただ、落ち込み、
何が悪かったんだろう? と、
考えるだけでした。

そして、孤独と不安の
浪人生活を送ることになったのです。

予備校に行っても、あまり身が入らず、
孤独感を紛らわせるために、
友人と おしゃべりしたり、
自習室で勉強してるふりしたり。

勉強してるんだけど、目標もなく
ただ日々が過ぎ去るばかり。

ただ、今になって思えば、この初めての挫折が、
自分の人生の始まりだったような気がします。

初めて、自分の頭を使って、物事を考え始めました。

“自分に何が足りないんだろう?
どうすれば、友人たちのように 自分の未来を切り開いていけるんだろう?“

そんなことばかり考えていました。
勉強ではない気がしました。

何かもっと根源的な
“生きる力“というか、

“強いこころ”みたいなもの
なのかなあと、原因を追究する毎日。

このころの
いろいろと試行錯誤して
頭の中で思考実験を繰り返す
経験が、その後の人生にも
役に立って行きます。

勉強はあまり手に付かなかったが、
なんとか国立大学 工学部に 合格することができ、

両親も友人も、喜んでくれました。

ただ、一つ僕の中には懸念がありました。

大学受験失敗、弟のこともほったらかし。。。
どれも、いまいちの結果なんだなーと感じていました。

何か、突き抜けたような達成感によって、
自分の力で獲得した満足感が
まだまだ不足しているような気がしていました。

僕の中の目標は、
高校時代の友人たちでした。

彼らは何事もなかったかのように、
受験を突破し、輝いているように見えていました。

“なんで彼らは自らの力で 未来を切り開いていけるんだろう?“

そんなことをひたすら考えていました。

いつしか、“なんで?なんで?”が、
自分の中のキーワードになっていきました。

小学生が見るものすべてに疑問を持つように、
お父さんに“なんで?”って質問するように。。。

答えはありません。
思いつくものを片っ端から試す。
人に訊く。本で調べる。
相変わらず、答えは見つからなかったけど、
ひたすらいろいろなことを試して行きました。

大学入学してすぐ、構内をうろついているとき、
ふと、大学のグランドにたどり着きました。

何も考えず、休憩しようと地べたに座って
いると、グランドでラグビー部の練習が始まります。

ラグビーの練習を見るのは、初めてでした。

中学のときに、体育の授業で何度かラグビーを
やったことがありました。

中学生当時は、“スクールウォーズ”がテレビで放送され、
みんな、泣き虫先生とイソップとの熱いスポコン物語に
のめりこんでいた時代です。

そのことを思い出し、
ラグビーに何となく興味がわいて
練習を見入っていました。

その時、ふと心に浮かびました。
“あっ、これかも。”

高校時代の友人たちに共通することが
ふと心に浮かんだのです。

三人とも高校時代部活動に一生懸命でした。
僕は帰宅部でした。

“三人に共通の部活に何かヒントがあるかも“、
そんなことがふと心に浮かんできました。

そうなると、僕もラグビーをやってみたいという
気持ちが芽生え始めました。

僕も入部してみよう。

その足で、練習のそばに行き入部を申し出ました。

近づくにつれて、彼らの体格が見えてきました。
”ぎょっ”、 フォワードの選手の太ももは、
当時体重54kgしかなかった自分の
ウェストぐらいでした。
その迫力に圧倒されまくりです。

でも、意を決して入部を申し込みました。

入ったはいいが、練習は想像を絶するハードさ。
高校時代に帰宅部だった、体重54kgの僕は、
練習についていくことが全くできません。

当然です。 周りは、花園経験者や
県代表だった選手、
大阪の強豪高校の
キャプテンや副キャプテン。。。

そんなレベルに帰宅部の僕が
ついていけるわけがありません。

入部後1週間で、ある練習の始まる前
アップをするために、グランドに寝そべりながら、
ストレッチしているとき、
”これが4年続くのか。。”と、ぞっとしました。

今では、いい思い出ですが、
いきなり体育会でラグビーをやろうとよく思ったものです(笑)。

高校時代の友人たちに、ラグビー部入部を報告しました。
”あほ、ぼけ、カス、やめとけー”と さんざん言われました。

彼らとしては、僕をバカにしたいということではなく、
真剣に僕のことを心配してくれていただけでした。

僕自身も ”やっぱり、だめかなー。。。”と
思うことばかりでした。

その後、何とか夏休み突入するまでの
3か月間は継続することができたものの、
僕自身が、何とか使い物になるレベルまで上達できるか、
全く自信は持てませんでした。

が、1か月の夏休み後、地獄の夏合宿がある。

”もう無理だわ。。”、そう思い、
先輩に退部を申し出ました。

ところが、その先輩が、

”辞めるのはいつでもできるよ。もし時間があるんなら、
夏合宿だけでも続けてみないか?” とやさしく言ってくれました。

辞めることに後ろめたさもあり、
先輩にそう言っていただけたことで、
少し心が軽くなり夏合宿に参加することにしました。

が。。。夏合宿は噂通りのハードさ。
とてもついては行けず、泣きながら、
吐きながら、走っていました。

僕の状況は全く変化はありませんでしたが、
周りの先輩方や同期の友人たちの励ましもあり、
何とか夏合宿を乗り越えることはできました。

夏合宿の仕上げは、 名物の”湯布院合宿”。

西日本のラグビー部が、一斉に湯布院で 合宿し、
お互いに練習試合を繰り返しながら
レベルアップを図っていく。

そこで、みんな思い思いに
一生懸命踏ん張りながら、
自分を鍛えていく。

先輩たちや、同期の友人たちの
真剣さを肌で感じ、
自分の中に少し変化が
生じてきました。

”自分もあの中に入って、頑張ってみたい。 試合に出たい。”というものです。

こうして、僕のラグビー人生がスタートしました。

そして、4年生になる頃には、1本目(レギュラー)として、 試合に出れるようになりました。

お世辞にも、”すごい選手”と言う訳ではありませんが、
僕としては、初めて高い目標にチャレンジして、
自分の力で勝ち取ったという”達成感”を得ることができました。

命には限りがある

就職は、外資系製造メーカーを選びました。

自分で起業する能力はないけど、
外資で稼いでやろうという意気込みでした。

ただ、現実はそう簡単ではありません。

そんな時、僕の中では大きな事件が起こります。
二人立て続けに、友人を亡くしました。

一人は、一つ上の先輩。
もう一人は、僕の同期の友人です。

先輩は、ある日お医者さんから肝臓ガンと診断がくだり、余命6ヶ月を宣告されました。

僕の同期の友人は、タイに出張中に、ある朝ホテルの一室で亡くなっていました。突然死です。

二人とも、一生懸命働いていました。
欧米の会社と日本の会社の狭間で、
多くのストレスを抱えて、

文字どおり命を削って働いたのです。

当時二人の年齢は、33歳と32歳。
まだまだ、人生これからという時に、
運命は辛くも 彼らに輝きを与えてはくれませんでした。

命には限りがあります。どんな人も、いつか死は訪れます。

このままでいいのか?

人生これが最後という日を迎えた時、 いい人生だったと笑顔で振り返れるか?

また自問自答の日々が戻ってきました。

そして、僕は結婚を機に、
もう少し落ち着いた生活ができるように 転職をしました。

転職先は、大手企業なので、経営も安定してるし、
少し自分の人生を見つめ直しながら、
家族との穏やかな人生を選択しよう、
そう考えました。

サラリーマン人生は流されるだけなのか?

ただ、人生、そう簡単にはいきません。
さらに、精神的に追い打ちをかけたことがありました。

日本の大手企業のレベルの低さです。

なんだこりゃ?です。

みんな、有名大学を卒業し、
頭は非常に良いのですが、 頭しか良くないのです。

終身雇用制度と年功序列制度のためと考えていますが、
そのような制度のもとでは、”失敗したら負け”になるから
誰もチャレンジをしない、言われたことを素直にやっておくことが、
正しいという価値観になって行きます。

なので、”俺はチャレンジしてる!”アピールをしつつ、
結果に対しては、”一生懸命頑張ったけど、
難しいことに チャレンジしたので、できませんでしたー!”というシナリオで、

上から、 ”まあ、難しいチャレンジしたんだから、
しょうがないなー” と言ってもらう着地を狙う、
無罪放免ストーリーを描いて、
平然としている始末です。

それを指摘しようものなら、

”何を言うか! 俺こそが、不可能を可能にしようとしてる 正義のヒーローだー!”

”むしろ、お前の方こそ、チャレンジしない悪党だー!”

と、悪代官扱いです。

演技力だけは、ハリウッドスター並みです(笑)。

ある時、僕は新しい技術の提案をしました。
が、その時の上司は、
”俺に聞くな!”と言って、
判断することから逃げてしまいました。。。

”お前が決めずに、誰が決めんだ!?”。。。
自分が決めて、もし間違っていたら汚点になるので、
決めることからヒステリックに逃げるのです。

さらには、どう考えても、働いていない上司がいるんです。。。
昔の年功序列制度のおかげで運良く昇進した人が、
遊んでいます。本人は、遊んでいないつもりでしょうが、
全くアウトプットがありません。

若手たちは諦めて、
”あの人は、この部署のマスコットだから(笑)” と言って、
放牧状態です。

もはや、コント。
誰が、バカ殿”志村けん”か?を会議で探すのが、
僕の日課になりました(笑)。

なので、
”転職したはいいが、本当にこれが僕のやりたいことか?”
という自問自答を繰り返すことになりました。

そのような環境でも、
自分なりに考えて、 一生懸命働きはしました。

周りの人が、3ヶ月かけて、調査・実験を行なって判断するところを、
自分は、過去の経験から、3日で判断・決断を繰り返すことで、
スピード重視の仕事の進め方を実践しました。

そのおかげもあり、
入社時に、昇格まで最低3年と言われた通り、
3年でマネージャーに昇進することができました。

また、次のシニアマネージャーへの昇格も、
最低5年と言われたのに対して、
飛び級で 4年で昇格候補者にノミネートされました。

ただ、また試練がやってきます。

社内の噂で、極悪との悪名高い部長が就任しました。

いつも、
”俺がクビになるから、それはするな。”
”俺がクビになるから、これをしろ。”
という始末です。

”俺のクビ”しか興味ないのは見え見えで、
周囲も苦笑いするだけでした。

社内では、その部長は疑い深く、
常に上からの評価に対して
ビクビクしている小心者という、
噂通りでした。

なので、

その会社で良いとされる仕事の進め方を実践しない僕は、
格好の標的とされました。

自分のやり方が正しいと主張する、”鼻につく”存在なのです。

その結果、僕は、人生で初めて会社の人事評価を落とされてしまいました。

僕は、これを機に、がむしゃらに働く人生から降りました。

日本の会社では、
”一回の失敗くらいで、ガタガタ言わず、 何度でも這い上がってこい”
という意味なのでしょう。。

が、正直、そのように頑張って偉くなったところで、
周りには、極悪部長のようなカスばかりなのかと思うと、
昇進することに全く意味を感じなくなったのです。

一生懸命働いた先に見たものは、

”昇進、保身、しょうもないプライド”だけだったのです。

29歳若手起業家との出会いとチャレンジ再開

そんなわけで、
それからの3年間は、
家族との旅行、趣味、キャンプ、など、
大いに遊びました。

ただ、3年もたつと、遊ぶことにも飽きてきます。
何かしら、虚しさは心の隅にあるままでした。

そんな時、インターネットで調べ物をしていると、
ある若手起業家のサイトが目にとまりました。

興味本位に、彼の記事を読み始めると、
そのブログに書いてあったのは、

世界を旅しながら稼ぐ!!
月収100万円は余裕だ!!!

初めて、これを見たとき、

うわー、出た!(笑) 怪しすぎるー、胡散臭すぎるー。。。

としか思いません。

会社でもクズ人間、ネットでもクズ人間ばかり、
あー、、、ため息しか出ませんでした。

ただ、そのブログを読み進めていくと、
書いてあることが”まとも”に感じられてきました。

  • 貧乏な家庭出身でお金のために大企業へ入社した
  • 僕と同じように大企業のメーカーに勤めていた
  • 悲惨な大企業を目の当たりにし、うつ病を発症
  • このままだとヤバイと思い、一念発起で会社も辞めて起業
  • ほとんど働かずに月収200万以上の収益
  • 何にもしてないのに、300万の商品が売れる
  • その男の周りの人間は年収3億だったり、3年で年商70億の会社を作ったバケモノばかり

本当かよ。。絶対嘘だろ。

と疑う反面、何か気になる内容でした。

普通、詐欺まがいであれば、大げさに煽り立て、
誇大表現を使用すると思いますが、
このプログの内容は、そんな誇大表現は少なく、
どう考えても、正直に説明しているような気がするのです。

こういう時どうするか?

ちゃんと調べてみようと思いました。

どうやって、起業したのか?
どうやって、不労所得が得られるのだろうか?

そこで、その起業家の方が販売してる教材を購入し、
僕も勉強してみることにしました。

そうすると、一つ一つの教材の情報が、
非常に先進的で 最先端のマーケティング理論を駆使して
ビジネスを立ち上げ、構築していったということが
説明してありました。

また、
初心者が絶対に手を出すべきではないビジネスにも触れ、
懇切丁寧に解説されて、的確に本質を捉えて、
読者が誤った方向に行かないように善意すら感じるものでした。

目から鱗でした。

”いや、これはすごいわ。これが本当なら、すごいことになるかもしれん。新しい時代の到来だわー。”

自分の仕事のように、
”本当にお客さんはそれを必要としている?” と思い悩むこともない、
むしろお客さんから感謝される。
ましてや、うつ病になることなんて皆無。
働くことが楽しすぎるくらい。

収益性が異常に良すぎるのは、
インターネットの力だということも 納得できました。

インターネットを使えば、誰でも世界の全ての人に
直接コンタクトし、ビジネスが簡単にできます。

また、ITの技術を使えば、
これまで人がやっていた 単純な作業を全て自動化し、
超効率経営も可能です。

そんな、最先端のマーケティング手法と最先端技術を駆使し、
ビジネスが展開されていることが理解できました。

”自分もやってみたい。自分も起業したい”。
単純に、そう思いました。
昔考えていた、”弟との会社”をつくるという
忘れていた”夢”を思い出したのです。

でも、ネットでブログ見ただけだし、
そんな奴って本当に存在するのか!?
やっぱり、嘘なんじゃね??

一度会って確認しよう。
そう思い立って、会ってもらうようにコンタクトをとりました。
彼も、快く会うことを了承してくれました。

その若手起業家は、いたって普通の好青年でした。

お金にギラギラしている風でもなく、
ただ、静かな自信に満ちた落ち着きを持って、
むしろこちらに気を使ってくれて、
色々とビジネスをする上での 注意点を
一つ一つ丁寧に説明してくれました。
その上で、僕の本心を確認してくれました。

そして、現在の状況を教えてくれました。

  • ネットでアフィリエイトという商品の代理販売で旅行している間に勝手に数十万の利益
  • 自分はほぼ働くことなく月収200万円を安定して稼ぐ
  • 飲食店や旅館や中小企業を経営コンサルして売上を数倍に跳ね上げる
  • 年収数億円クラスの化け物経営者と大規模なプロジェクトを手掛け、海外の起業家と連携して年商数十億の事業を作ってる
  • 他にも全国に美容サロンを20店舗以上経営
  • 海外の富裕層へ日本製品を輸出する事業を手掛ける
  • 人工知能やロボットを使ったビッグプロジェクトに参加

また、どういうビジネスの構造なのか教えてもらいました。

  • 一度、利益が出るサイトができてしまえば自分が働かなくてもサイトが働いてくれる。
  • ネット上に、勝手にお金を稼いでくれる自動販売機という仕組みを作る感覚。
  • あとは、もっと収益を上げるためにサイト(仕組み)を強化することもできるし、サイト(仕組み)を何個も作って、複数の収入源を作ることだってできる。

”やっぱり、これは本物だわー。これに賭けてみよう!”

直感でした。

僕は、その場で即決し、
彼からコンサルティングを 受けるために、
300万円を支払うことを約束し、
弟子入りさせてもらいました。

僕は、彼に日本の未来を感じました。

日本が作り上げてきた大企業の悲惨な状況とは対照的に、
新しい時代が着々と近づいてきているということが 確信できました。

もはや、大手企業は賞味期限切れなのです。

ウソや、必要以上に自分を大きく見せようとする卑しい心のオンパレード。
生きていくには、仕方ないじゃん!と自分に苦しい言い訳ばかりの人生。
それが、大手企業の実態なのです。

一方で、
自分の意思で、
お客さんに本当の価値を提供することで
お金をもらい生きていく。

そんな、ビジネスの原点と、
彼の潔さやスマートさに
共感する人がこれからも
続々と現れてくるような気がしました。

僕は、いつの間にか、
20代の頃のチャレンジ精神を忘れ、
いつしか無難な人生を選択するように
なっていることに気づきました。

会社でのしょうもない人間関係と
世のためになっているのかさえも怪しい”クソ仕事”。

それだけで、人生を終わって、自分は後悔しないのか?

そのように、その若手起業家と、
20歳ころの過去の自分から
問われている気分になりました。
明らかに、自分自身も、20代の時の方が、
一生懸命、純粋に、人生をかけて
戦っていたと思います。

20代の僕は、ゼロからラグビーを始め、
一人で未知の国に冒険に出かけ、
外資企業という未知の世界に飛び込み、
自分の未来を切り開いてきたと思います。

今、人生の折り返し地点に立ち、
これまで積み上げてきたもので、
知らず知らずの間に、自分も保身に
回っていることに気づきました。

そして、これじゃいかん、と思い直しました。

僕も、”自分のビジネスを立ち上げて独立し、
世の中に本当の価値を提供する”ということを、

改めて決意しました。

まさに、立ち上げたばかりですが、
20歳の頃に戻り、自分の未来と向き合いながら
日々行動を開始したところです。

最後に、僕がこのブログで発信している理由

”神様は乗り越えられる試練しか与えない”

と言います。

今から、イチロー選手のようになれとか、
オリンピックに出場せよ、と言われているのではないのです。

ただ、シンプルに
”自分の人生を自分の力で切り開いてみろ”
ということだけだと思います。

そして、
情報を発信する側に立ち、
僕が感じていたような

自分の人生に不安を感じている人たち
自分の人生を、自分で切り開きたいと思っている人たち

そういった人たちの役に立ち、
一人でも多く、何歳になってもチャレンジすることができる
”かっこいい”大人を増やしたい。

もう一度原点に立ち返り、
これまでの人生をリセットし、
若手起業家に教えを請いながら、
人のせいにすることなく、人に感謝し、
また新たなチャレンジに一歩を踏み出しました。

このブログは、 そんな僕のチャレンジの記録と、
僕のチャレンジを発信することで、
僕自身の決意表明としたいと思い、
立ち上げました。

一回きりの人生です。

生まれながらに障害を持っている弟や
志半ばで人生を終わらせなければならなかった
先輩や友人の意思も背負って、

残り半分の人生を走り切りたいと思います。

このブログを見て、 批判する方もおられるでしょう。
応援してくれる方もおられるでしょう。
それも全て受け入れ、一歩一歩前進していきたいと思います。

最後に、 僕のチャレンジをメルマガにして
発信したいと思います。

200万/月の不労所得を得る ビジネスの本質を体系的に
まとめて発信しています。

無料のメルマガなので、
人生を変えたいという人は登録してみてください。
興味がなくなれば、すぐに解除できます。

長い文章、ここまで読んでいただいてありがとうございました。

追伸
僕の過去をより深く解説しているのが 下記レポートです。

これは、僕が、

どういう働き方をしてきたか?
そして、その瞬間瞬間で何を感じ、
どう行動してきたか?
そして、何を掴んで、
その後の人生にどのように役立ててきたか、

を描き下しています。

是非読んでみてください。

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僕は、不労所得200万円/月を稼ぐ29歳の若手起業家と出会い、
心の底から人生が楽しいと言えるほど、人生が楽しくなりました。

これまでの半世紀の人生、一生懸命努力して、
外資企業から日本の大手企業に渡り歩いて、
それなりの良き人生と言ってもらえるレベルには
なりました。

しかし、大企業のレベルの低さに心が壊れました。
そして、自分の力で会社を作り、
社会に価値を届けて生きていくことを選びました。

ネットビジネス、不労所得200万円/月というと、
超絶怪しいですよね。

ただ、僕は調べまくりました。

そして、20歳も年下の若手起業家に教えを請い、
ビジネスを実践することで、
理想の人生に徐々に近づいてきました。

結局、人生を変えられるかどうかは、
正しい知識と情報を得て、
学んで行動する。

このパターン化された繰り返しに慣れる。

たったこれだけでした。

ビジネスに才能なんて必要ないのです。
どんな人でも、正しい情報を得て、正しく行動する。
それだけでいいのです。

それに対して、世の中は、
質の低い、偏った情報が多すぎる。

それを、僕はこのブログで証明したいと思います。


 

私、フィエスタは
不労所得で月収200万以上稼ぐ
若手起業家
と出会い、

人生が激変しました。

 

現在は、ある大手企業で管理職として働きながら、
こうやってネットビジネスで情報発信しています。

 

人生、色々と頑張ってきました。
そして、技術を極めたいと思って、
博士号も取得しました。。。

その知識を活用して、皆さんがご存知の
とある製品を開発しています。

 

小難しい、数学、物理、コンピュータなどなど。。

 

ただ、常に自分に疑問が湧いてくるんです。

「これって、本当に社会に対して価値を
提供してるんだろうか?」

もちろん、その製品を使ってくださる方々に
対しては、その通りなんですが、

「たった、それだけ??」

って思うんです。

それよりも、もっとダイレクトに、
多くの人に、価値を提供したいと思い、
ネットビジネスを始めました。

今は、とても楽しいんです。
会社の仕事のように苦しくないんです。

色々な読者の方を励ましたり、
逆に励ましてもらったり。。。

直接、色々な方と”つながってる”って、
実感でき、価値も提供できてるって
安心するんですよね。

 

ビジネスなんて、才能なんて不要だと思います。
むしろ、それが足かせになっていると思うんです。

会社の中では、超優秀な人が、思考停止状態になり、
自分のプライドとか保身のために、
ダークサイドに落ちたり(笑)、
心を病んだり。。

 

なので、

より、人間的にいきていきたい!

人生、勝つとか負けるとか、才能じゃない。
どんな人でも、行動すれば
絶対に変わることが出来る。

それを、示すことも自分の役割だと思います。

 

これまでの人生、
起業家との出会い、
ネットビジネス開始の
ストーリーはこちらで
書いてます↓

大手企業 管理職の僕が
20歳年下の若手起業家と出会い
ネットビジネスを開始する物語

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